三房の葡萄

久しぶりにぶどうを食べた。

かつてぶどうを食べた記憶というのは小学生の頃だった。祖母が買ってきたぶどうに「これ美味しいね」と言ったら爆裂に買ってくるようになったので最初こそ美味しく食べていたものの後半はなかば作業のように有難みもなくプチプチと口に運んでいた。

なんていう品種だったか、かなり小粒で種がなく紫色のぶどうだった。

しばらくしてアメリカンチェリーを買ってくるようになり、「これも美味しいね」と食べ始めてから祖母が買ってくる果物がアメリカンチェリーに変わり、やがて苺になった。思い入れもなく食べるのだから別にどの果物でもいいかなというくらいのなんとも残念な子供であった。

 

昨日偶然のご縁があって、ぶどうを3房もらった。棚ぼたのような頂き方だった。

「ぶどうを食べる」と脳みそに指示を出すのが小学生ぶりだったので、それで祖母のことを思い出した。

この度貰ったのは粒がデカくてあの頃のぶどうとは全然違うものだったが遠くにあの頃のぶどうの味がした気がする。

久しぶりに食べると「ぶどうの味はこうである」と脳の深いところから呼び起こされるかんじがあり、鮮烈なものだった。これを食べるまでぶどうの食感をリアルに思い出すことは出来なかったから一粒の情報量が多くて驚いた。

じゅわっとしてみずみずしく、ぶどうジュースよりも甘酸っぱくて爽やかで奥行がある。ぶどうってそういうものらしい。こうやって書いていてもそのうちこの記憶の鮮やかさを忘れるんだろうな。悔しい。

ちょっと凝ったこともしてみたくて数粒凍らせてもみた。凍ったぶどうは甘さが控えめでシャクッと割るとすっきりと澄んだ味がする。シャクシャクのぶどうもまた美味しい。フルーツというのは甘味を有難がるべきものなのかもしれないが凍ったフルーツの生命感ある澄んだ味もいいものだ。

 

昨日、もらったぶどうを一房ずつその場のスタッフに分けたが、なんだかもったいなくて自分用にとっていたぶどうを軸を外して洗って水に漬けたのをそのまま職場の冷蔵庫に入れておいて今日さらに少しづつスタッフに振舞った。

ぶどうのいいところはひと房が20個くらいに分けられることでもある。1個のフルーツをみんなで分けて「おおお〜」などと言いながら少し暇ができる度に代わる代わる冷蔵庫のぶどうを食べながら労働した。疲れた時に2~3粒食べると良い休憩具合だし、なかなか水分が多いのでいつ飲んでも変わらない味のペットボトルの飲み物を飲むよりも嗜好性のある水分補給が出来てなんだかラグジュアリーな気持ちになる。

こうして瞬く間にわたしの一房のぶどうは消えていった。

食べる時に各々ぶどうにまつわる話をできるのもよかった。「このぶどうはなかなか北海道では食べる機会がないらしいですよ」「へぇ、なんでなんだろ。調べてみよう」とかそういう他愛もないものだけど一口二口食べるだけでこういう話が出来るのはなかなかに凄いんじゃないだろうか。これぞぶどうパワーである。

他のフルーツだとどうしても各々でそれぞれ1単位ずつ食べることが多く共感性のある楽しみ方ができなかったり(苺とかね)、バナナは持ち帰りに便利過ぎて同じ場でたべることがなかったり、みかんは1単位に10個くらいの粒がある訳だがそれらをちみちみと分け合おうとはあまりならないのでこれも各々持ち帰ることが多い。

その点においてぶどうというのは、ひとつのお菓子をパーティー開けして同じものを一緒に食べる楽しさに近い楽しみ方ができる。

カットフルーツみたいな詰め合わせだとそもそも1人で食べることが多いし、1人で食べるにしてもなんだか味の配分とか考えてしまってあまりにも各フルーツに対しての敬意を持てないしさ。

 

ぶどうをもらっただけでこんなにも語ることないだろと思うかもしれんが、私が敬愛してやまない長野まゆみの「夜啼く鳥は夢をみた」という本で祖母のいる家に避暑に来た少年である主人公が噎せ返るほどの夏の暑さの中でいつも祖母が冷やしてくれているきりりと冷えた水蜜桃を食む描写があってね、「物語の中だからそんなに美味そうに書いてんだろ」とか思ってたんですが確かにそのくらい鮮烈な美味さがあるし、なによりいつでも冷えた水蜜桃があってそれをなんでもないように口にすることが出来る有り難さを考えると相当寵愛されて育っているんじゃないかと思ったんですよ。 

長野まゆみ氏の小説では大人の存在が意図的に描かれないのでただ「祖母がいる」としか書いておらず物語に一切出てこないんですけどね、きっと寵愛していたはずです。

 

そんな有り難いフルーツのお話でした。

重ね重ねありがとうございます。改めてお礼をさせていただきたいものです。