不要論に寛容になれない

「〇〇不要論」みたいなものが人によってかなりある。

日頃から気にしていなければ自分にかなり強いそれがあると自覚出来ないものじゃないだろうか。少なくとも「この人は世界の中で自分の匙によるウェイトが凄まじくデカいんだな」と思って聞いているし、「不要だよね!?」と話を振られたら「それ要らないんならわたしの方がもっと要らないことになりますよ!?やだ〜!!」と言って会話を回避する。無駄な議論だと思うし、「〇〇不要にぽよ水さんも賛同していた」の1票として参加させられたくないからだ。

まあ、他人に「不要だよね?」と聞く時点で自分ひとりの意見が正解なのか自信がないんだろうからその部分についてはカワイイネ〜と思っている。そういう人間の脆弱さはかわいい。自分はこう思う、という一矢として放てない弱々しい言葉がかわいい。

「要りません」は全然かわいくない。少なくとも世界の覇者になってから言ってみてはどうかと思う。それでもわたしは賛同しないし、かわいくないねぇと思うだろうがね。

 

効率的ではないから要らないとか、無意味だから要らないとか、それって結構強い言葉だなあと思う。

ほら、みなさんコロナ禍のひたすら「警戒してください」「家に篭ってください」のなんもない時間を過ごしたじゃないですか。あの頃に役立ったものや拠り所になったもののほとんどはその「不要」と判断したものだったと思うんです。少なくともわたしはそうだったな。

例えばぬいぐるみは、久しぶりに全てのぬいぐるみを撫でて「そういえばこのぬいぐるみはこういう感触で、重さで、買った時こんな気持ちで」と思い出して、仕事は定時に点呼をしたり営業開始日程がずれ込んだことを報告する以外特にやることもなかったからひとつひとつのぬいぐるみを手洗いしてよい匂いにしてみたりしていた。それがよかった。

他にも革製品の靴なんかを集めていたんだけど、ケアがおろそかになっていたのでゆっくりクリームを塗りたくりガッシガシ磨き上げてツヤツヤのバイオリンみたいにしていた。余談だがわたしは革製品がツヤツヤで茶色のグラデーションがバイオリンみたいになっているものを至高の品として見ている。可能であるならもはやバイオリンを履きたい。別にチェロでもビオラでもいいんだけどね。

革製品なんていうのは「必要不要」の話になれば耐久性についてしか述べられなくて、それで言えば本革に匹敵する耐久性の合皮が作られてしまえば一気に不要に傾くと思う。ッカ〜!つまんねえ!

たしかに合皮、いいですよ。雨に当たってもキャーとか思わないで歩けるし、水溜まりや雪道も堂々と歩けるし、本革みたいにカビたりしないし。でもさあ、手入れ楽しいんだよね。手入れの仕方次第で既製品の靴から離れて「その手入れ素晴らしいね!」みたいな評価になるの。なんというか、その人がどういう人であるかは革靴を見ればわかる気がします。「革靴買わなきゃいかんよ」と言われて仕方なしに買ったであろうヨレて光のないビジネスシューズとか、服装は無難なのにツヤツヤに磨き上げられた革靴を召している方とか(ちょっと話しかけたくなる)。

 

あと必要不要でいうとお守りも不要になるよね。

神社でもらえるアレだけではなくて、自分が心細くなった時に持っていたいものとか願掛けとかジンクスとかその類いのものもひっくるめて。

そんなのを全てとっぱらってしまったら人って、なにかとてつもなく不安定になるんじゃないのかな。

 

こうして文章にしてみると少なくとも今は要らないものを一切廃してしまった人を理解するに至ってないんだなあと思う。ごちゃごちゃしている人に人間的な魅力を感じてばかりいる。

考え方が偏るのもいけないからミニマリストっぽい人とも交流したいところですがきっと「ムム……」と思って身を引いてしまうような気もします。