コーヒーの香りの安心感たるや。

幼少時に親がコーヒーを作る時に、要るとも要らないとも言わないのにわたしの分までコーヒーが用意されていた。正確にはカフェオレだけれども。

それはスーパーで売っている一番安い粉末のコーヒーを使ったもので、それをこれまたスーパーで一番安い水みたいな低脂肪乳で割ったものだった。低脂肪乳がない時はマリームとかいうおそらく脱脂粉乳の粉を入れた。

飲んでみると苦味以外の風味が薄く、コーヒー特有の匂いもあまりせず「今コーヒーを飲みましたよ」という記号以外の役割を果たしていない産物だった。

だからわたしはコーヒーが嫌いだった。

 

一方で小学校の職員室はいつでもコーヒーのどっしり落ち着いた香りが漂っており、時間の流れがゆっくりになる気がして好きだった。

その頃小学校が終わると家に親がいない家庭が利用する児童館という施設に通っていたのだが、そこの職員室でもコーヒーの匂いがよくしておりその匂いを嗅ぐために他の児童と遊ばずに職員の先生にくっついてまわっていた。

児童館では飲み終わったコーヒーの粉を消臭のために靴箱の上に設置しており、児童館を出る間際「コーヒーの匂いを嗅げなくなる名残惜しさ」から帰るのが嫌だなと思うくらいであった。

とにかく、わたしにとってコーヒーの匂いは安心を表す記号でもあったのだ。

それは大人になってからでも変わらなかった。

 

蛇足になるがどうしても安心感を得たい時にDSのゲームのどうぶつの森を起動して喫茶店に行くことすらあった。

どうぶつの森ではゲーム内でハトが喫茶店を経営していて、500ベルというまあまあ高額な価格で主人公がひと口で飲み終わる程度のコーヒーをハトが提供してくれる。主人公は出されたコーヒーをビールのようなのど越しのSEと共に一気飲みする。情緒もへったくれもない。

 

それはそうとして「コーヒーを飲みたい訳ではないが、匂いを嗅いでいたい」というねじくれた願望は大人になってしばらくしてから、意図せず喫茶店で本を読んでいる友人に合流するイベントによって「コーヒーを味わう」というきっかけを元に「喫茶する楽しみ」にやや変化した。

友人は大音量でジャズがかかっている昔ながらの喫茶店におり、そのような場に10分と滞在しないわたしにとってはどう過ごしていいかわからなかった。

とりあえず友人は読書しながらコーヒーを飲んでいるようだったので席につきわたしもブレンドコーヒーを注文した。

なぜブレンドにしたかというとどうぶつの森でハトが提供していたのがブレンドだったからだ。正直それ以外のコーヒーは飲むきっかけがないので消去法として残ったのがそれだったという理由だ。

最初に出された水をガバガバ飲んでいるとしばらくしてコーヒーが運ばれてきて、おお…コーヒーだなと軽薄な感想が出た。

本を持ってくるのを忘れたので青空文庫梶井基次郎とか井伏鱒二とかを読んだ。10年くらい前は青空文庫はもっと品数があったけれども割と最近版権が変わったため読める作品が減ったらしい。

なんか夢野久作とか読めなくなってた気がする。

そんなこんなでとりあえず落ち着ける作品を見ながらコーヒーをすすってみた。あっつい。

熱いけれども、なんか美味い。値段を見ずに注文してしまったが相当高いコーヒーだったんだろうか。酸味もない。かつて飲んでいた酸っぱい泥水みたいなコーヒーとは比にならない。

 

その翌日にファミレスみたいな店でまたしてもコーヒーを飲むイベントがあった。一緒に行った人曰く、ファミレスにしてはコーヒーが美味い店らしい。

そう言われたら付き合いとしてコーヒー飲むしかないなと思いコーヒーを注文した。昨日のコーヒーよりは泥水指数が急激に高まるだろうよなどと思いながら。

そして出てきたコーヒーを飲むと香りはそうでもないものの、苦味も少なく2杯3杯と飲めるものだった。

もしかしたらコーヒーって美味しいのかもしれないな。

 

ネットに転がっていたなにかの記事で「大人になると舌の味蕾がある程度死ぬので刺激の強いコーヒーなどを美味しく感じられる」というのを見た記憶がある。

わたしがコーヒーを美味く感じられたのは多分結構そういうことなんだろう。ある種の老いである。

一生何もかも変化しないというのはさすがに人生つまらないので老いによる味覚変化もまあいいかなと思う。

 

そして今朝早起きしてしまったのでドリップコーヒーを淹れてみた。

そのコーヒーはお値段がちょっといいやつで「値段の割に不味い」というレビューと「お湯をメーカー推奨の140mlきっかりに淹れると美味い」というレビューが乱立しているコーヒーで、お湯の量が勝敗を決めるんだろうなと思った。140mlって何mlなんだ。わからんよね。

なにもわからないまま、茶碗みたいなデカいカップにドリップコーヒーを設置してお湯をダバダバ注いだ。いざドリッパーを外すと140mlというより280mlくらいありそうな量になっていて見るからにほぼ不味い事が確約された。

わぁ……と思いながら飲んでみる。別に不味くない。多分色んなコーヒーを飲んでいないから経験値の低さ故に不味いと認識出来なかったのではないかと思う。それはそれでお得でいいんじゃないだろうか。

 

今はとりあえず飲み終わったドリップコーヒーのカスをシンクで干している。乾いたらわたしも児童館でやっていたように靴箱の上に設置しようと思う。そうしたら少しは帰ってきたい家になるような気がするのだ。