きゅうりの漬物をなにで食べるか

漬物くさくない漬物が結構好きだ。

セコマのホットシェフに昔入ってた驚きの分厚さのたくあんとか、きゅうりの浅漬けとか、ごんじりとか。味と食感に技巧を感じるように思う。

 

で、毎年暖かくなってくると「うあー微塵もものを食べたくないですーアイスでいい、アイスで。」というほとんどなにも食べたくない胃になるのでそういう時かなりの頻度でセブンの「ピリッとからっキュウ」を買っている。

味音痴なので定かではないが、うっすら出汁の味と輪切りの唐辛子が多かったり少なかったりするが散らしてあるやつだ。胃に入ればさほどキャパを必要としないのにガリガリジャクジャクと噛んで食べられるのが嬉しい。

これを買うとセブンで箸をつけてもらえるのだが、箸に添付されている爪楊枝で食べるのがなんとなく好きだった。くるくる眺めてから「これはだいぶジャクジャクしそうだ」とか、「唐辛子もひとつ拾って食べよう」とか吟味しながら味わって食べられる。

しかしいつしかSDGSのからみで箸に爪楊枝が添付されなくなった。むしろ箸は要らないので爪楊枝だけが欲しい気持ちだったが、コンビニで爪楊枝だけをつけるのが適している機会というのはほとんどないので致し方ない。仕方なく箸できゅうりを食らう。

が、箸で食べることにより風味もまた違う気がする。爪楊枝をジュ……と刺して「ほほう」と思う事がないのでこれから食べるきゅうりのことを箸でつまみ上げる時側面のツルツルした部分をつまむことになる。そうすると次に待つきゅうりの良さが予想出来ずなんとなくつまらない。当社比的には爪楊枝で食べるのと比べて75%くらいの良さになる。

妥協案としてフォークで食べてはどうかとふと思った。フォークなら刺すことはできる。しかしフォークは刺さる面が爪楊枝ほど鋭利ではないので全て勢いよくザクッ!と刺さる。これもこれでなんかつまらない気がした。それでも爪楊枝とはまた違ってフルーツを食べているような感覚にもなった。

なんだろうな、みずみずしい物に直接刺して食べるというのはフルーツの感覚なのだ。だから経験の中で完全にきゅうりがフルーツのていで口の中に運ばれる。それもそれで悪くないけど味はすっきりとして辛いのでなにか違和感がある。たまにはいいかもなくらいの感想。

食器じゃなくて口に運ぶためのツール(カトラリーと呼べばいいのだろうか)で味というか食の体験が変わるのが面白いなと思った。多分ワインは口がすぼまったグラスだと香味高いとか、コーヒーは口が大きく開いたものの方が香味がより感じられるとか、そんなのに近い感覚。

 

これを思うと爪楊枝でチマチマ物を食べるというのは小さな個々をより奥深く味わえるツールなんじゃないかと思えてくる。

コロナ禍を越えた最近ではめっきりなくなったけど、スーパーで試食を配る時は半分に切ったウインナーが爪楊枝に刺さってる時が結構あるけど、あのような時も確かに小さなウインナーに多くの情報を感じる。

多分試食で香熏を食べて美味しかった時に思わず買って、ポトフなどに入れて見るも「出汁としては有用ですね」としか思わなかったりするのは爪楊枝で食べてないからではないだろうか。

または試食ではデザート用の小さい透明スプーンで何かが提供されることもあるが、あれは小さい透明スプーンだから一番美味しく思えるんじゃないだろうか。

 

今朝、江國香織の「やわらかなレタス」を読み切った。これは食べ物に関することをひたすら連ねたエッセイだ。

この本自体は「まあ物によっては共感できるし、全くわからんものもある」というそれなりな感想だったんだけど読んでみて思ったのが食べるという体験の良さは食べて味を感じる前から形成されて食べた時点で決するんじゃないかなと思った。

どういうシチュエーションで、どんなものを、なぜ選んで、どこで食べるのか。もうそこから「味」は始まってるんじゃないかなあと。

わたしは食にこだわりがないつもりだったけど味がする瞬間よりも味が始まる前の体験は嫌いではないかもしれんと思った。

 

きゅうりを食べる時は大体職場の休憩時間なのでシチュエーションは変えようがないのだが、どのカトラリーで食べるかはある程度自由が効く。

まだ試していないのはなんだろう、チャーハンを食べるレンゲで試してみたい気もするし、いっそ手食いしてもいいかもしれない。あとかき氷に刺さってるしましまストローの端を加工したペナペナのスプーンとか。味の可能性は無限大だなと思い、ひとりで少し唸った今現在である。